いつものように神谷道場で弥彦と競うように飯をかっ喰らい、騒ぎすぎない程度に喋って笑って、みんなで酒を飲み交わした。今日は珍しく嬢ちゃんが早々に酔い潰れたので、剣心が寝床へ連れて行った。満腹の心地よさにゴロリと横になりたいところだったが、弥彦が睨みつけてくるので二人で片づけをした。今日は小さい嬢ちゃんや恵は来ていない。『普段の神谷家』に邪魔してるのは俺だけだ。特に用事がなくても俺は勝手に遊びに行くが、剣心が「一人だと酒で済ますのであろう」と俺を心配してよく誘ってくれる。実際剣心の飯は美味いし、家族みたいに大勢で食うのは面白い。
綺麗に磨かれた縁側に張られた板が、月明かりを柔らかくはね返している。いつも弥彦の修行と称された拭き掃除の賜物か。そこに大きく胡座をかいて、酒で火照った身体を夜風に晒している。膨れた腹を休めるために啜った茶が美味い。
隣で小さく胡坐をかいた剣心から「左之、今夜は泊まっていけばいいでござろう」というありがたい申し出を頂いた。
剣心も嬢ちゃんも奥手同士なモンだから何の進展もないのだろうが、まるで神谷の家と道場の主のように俺を誘う剣心は今宵の月のように、とても穏やかな顔をしている。その笑顔に素直に頷きたくもなるが、俺の首は縦ではなく横に振られていた。
「いやァ、今夜は帰るとするわ」
見上げれば丸くて大きな月が空に輝いている。西洋の御伽話で「狼男」とかいうのがある、と舎弟の誰かが喋っていたのを聞いたことがある。なんでも満月の夜にはその男は狼に戻るのだとかなんとか。日本では月では兎がぺったんぺったんと餅をついているというのに、西洋ではとんでもなく物騒なことを言いやがる。だけど、そういうのも少しだけ分かるような気がする――そんな綺麗な月の夜だった。
「そうか。気をつけて帰るでござるよ」
すっかり俺専用になっている神谷家の湯呑を剣心に手渡して、下駄を履いた。剣心の赤い髪が月光を浴びて、太陽のような、炎のような不思議な色に見える。抜刀斎だった頃、この目立つ髪色で闇を斬るのはさぞかし目立っただろう。それを意に介さず斬ってきたのだろうから、剣心がどれだけ強いかは俺にだって分かる。喧嘩の腕に自惚れ、維新志士憎けりゃ刀まで憎いと言わんばかりに勝負を挑んだのも今は昔の話……と思ったが、ほんの数か月前のことなのだ。少し前までの俺の相棒だった斬馬刀もここの縁下で休んでからまだ日が浅い。剣心たちと出会ってからの日々は楽しくて面白ェ。自棄になって喧嘩屋稼業に明け暮れていた頃よりずっと気持ちいい。維新志士と一緒に笑って飯を食っているなんて、少し前の俺に言ったら絶対に信じないだろうと思うと、笑みが漏れた。
カラカラと下駄を鳴らして長屋へと戻る。心地良い夜風が半被の隙間を吹き抜けていく。鉢巻の端の赤がピラピラと踊っている。喧嘩屋を廃業してからも、喧嘩なら何度か吹っかけられたが、今となってはそんな馬鹿はだいぶ少なくなった。静かで平和な夜だ。血腥い幕末を駆け抜けた大人が創った明治という平穏は、まだまだ盤石には程遠い。だが剣心みたいな奴がいるなら、今はまだこれでいいかと思えてくる。問題は次だ。俺らはともかく、弥彦や赤べこのトコの小さい嬢ちゃんみたいなガキに汚ねェことさせないで済む世の中にしなきゃなんねェ。剣心だって嬢ちゃんと想いあってるのは誰が見ても分かるんだから、とっとと祝言でも上げてガキでもこさえちまえばいい。不殺の誓いとかいうのは分かった。今まで殺しをやったのを後悔してんのも分かった。じゃあテメーが新しい命を増やせばいいじゃねェか、と俺は思うんだけどな。この時の俺は、剣心が単に奥手なだけだと気楽に思っていたから、そんなことを考えていたその時だった。適度な酔いも手伝った、ふわふわとした甘い戯れ事を切り裂くような殺意が割り込んできた。喧嘩を売ってくる奴が減ったとはいえ、前にぶちのめした奴等の報復なんかは未だにある。その手合いか?と辺りを伺っても闇しかない。
「……やっぱりてめェかよ」
「気づくのが遅い。どうせ栓のない考え事でもしていたんだろう。阿呆が」
満月の下に足音もなく現れたのは狼だった。
狼の漆黒の毛が月光を撥ね返してギラリと輝いている。その照りを作っている独特な整髪油の匂いを思い出してしまった。元新撰組と元喧嘩屋という距離をこれ以上なく縮めた時にだけ鼻をつく、その匂いを。剣心の申し出を断ったのは、今夜あたり狼男が現れるような気がしたからだ。約束があったわけではない。斎藤は俺に次の約束なんてしない。来たい時だけ来て、勝手に帰る。
「何しに来たんだよ」
「分からんか?阿呆が」
分かっていた。斎藤が次に何をするか俺は分かっていた。白手袋で腕を掴まれ、長屋と長屋の間の細い路地に押し込まれる。牙を剥いた狼の噛みつくような接吻には、煙草の味が深く浸み込んでいた。角度を変えられて、何度か唇を貪り合ううちに、煙草とは別の斎藤の臭いが俺を包んでくる。俺の周りでは使ってる奴のいない、整髪油の匂いだ。俺はもともと太い毛が逆立ってるのでそういうものを使う必要はなく、剣心は赤くて長い髪を後ろでまとめている。長くて黒い前髪を後ろに流す斎藤だけが使っているのだ。口付けの間に鼻から吸い込む息には、その匂いがたっぷりと含まれてしまう。口は煙草の味で痺れ、鼻から吸い込んだ斎藤の匂いのする息が俺の肺を満たす。それだけで十分におかしくなりそうなものだった。
「ったく、公の場所でこういうことをするのを注意するのがてめェらの仕事だろうが」
公の場所での接吻は一応禁止ということになっている。だが、そんなの政府だの警察だのにとやかく言われることじゃねえと俺は思う。多分斎藤もそう思ってるから、警察官のくせに自ら禁を犯してくる。
「阿呆が。俺の専門は殺しだ」
「そう言うと思ったぜ」
肩で息をして、その合間に軽口を叩いてみる。俺は知ってる。斎藤は俺が嗤うのが好きだと知ってる。心底嫌そうに、それでいてめちゃくちゃ楽しそうに嗤うと喜ぶというのを俺は知ってる。
「分かってるならいい」
殺してやると言わんばかりの目で斎藤も嗤う。俺もこれが好きで好きで堪らないのだ。
「殺されてやるから場所ぐらい選ばせろよ、この不良警官」
つまりは『続きはウチにしろ』ということだ。皆まで言わずとも意味を解した敏い狼は、ゆっくりと己の唇を舐める。月の光が反射して、薄い唇にぬらりとした艶が浮かび上がった。
それをじっと見ていたら急に頭が後ろに下がってのけぞってしまう。鉢巻の端を後ろへ、ぐいと掴まれたのだとすぐに分かったが、抵抗できずに顔は上を向く。視界には黄色の大きな円が浮かんでいる。それを遮るように斎藤が覆いかぶさってきた。不安定な体勢なので斎藤の背中に腕を回して転ばないようにする、なんてのは後付けのような言い訳で、俺自身がそうしたかったからその身体をきつく抱き返した。
月は黒い狼によって完全に見えなくなる。月によって狼に変えられた男は、そうやって俺の目から月すらも消し去る。明治?新しい時代?そんなモン今は俺の知ったことじゃねェ。長屋に移動する前の最後の口付けは、満月の夜なのに新月みたいに真っ暗で、斎藤以外は何も見えなかった。