一人酒よりは二人酒の方が自然と量が進む。然程いい酒でなくとも、やけに美味く感じるとは俺も俗物だ。今夜の酒の相手は、普段よほど粗悪な酒しか飲んでいないとみえて、うめえうめえと幸せそうな顔で遠慮なくあおりやがる。飲むほどにその頬は火照り、目つきからは警戒の色が薄れていった。口を開けば喧嘩腰だったのが、舌の根にまで酒が回れば些末はどうでも良くなる性質なのだろうか。純粋に今夜の酒を楽しむ姿に、俺の酒も進ませられた。男のくせにかなりの話し好きらしく、俺の適当な相槌にも身振り手振りや緩急をつけ、面白可笑しく語る。抜刀斎との出会いの話に始まり、話題が神谷の娘に移ると、俺にまで「嬢ちゃんの作ったメシだけは絶対食うなよ!」と忠告を入れてきた。小童は明神弥彦という立派な名を持っているそうだ。「生意気だけど骨のある奴だぜ」と自慢の弟を語る兄のような顔をする。そして高荷という女医の話まで訊いてもいないのにベラベラと際限なしに話し続ける。その肩の治りの速さは、迅速かつ的確な処置あってのことだったと合点がいった。
「見せてみろ」
何を指すかまでは言わずとも、口をひきつらせながら杯を置く。
「ほらよ。よォく目を凝らして見てみやがれィ」
と右肩を差し出してきた。身を乗り出して傷口に目を凝らす。しかし、揺らめく行燈の頼りない炎の下では暗くてよく見えない。腕を掴んでぐいと引き寄せると、さも嫌そうに顔を背けた。
「まだ痛むのか?」
「痛くはねえよ。別に恨んでもいねえ。……けど、アンタにそこを見られるのは思ってたよりキツいな」
相楽は胡座をかいた膝に左肘を乗せ、頬杖をついて下を向く。湿気を孕んだ苦い声は雨に融けて畳へと浸み込んだ。
利き腕の肩をやられたとなっては、元喧嘩屋・斬左の名が泣くか。刀の横幅と同じ長さの、乾ききっていない瘡蓋が未だ生々しい。そこに触れるのをやや躊躇っていたら、
「もういいだろ。痛くはねェんだが寝てる間に痒くて掻いてるみてェでよ。いつまでたっても消えやしねェ」
と身をよじって離れていった。
俺の指先はどういうわけか名残惜しさのようなものを感じていた。行き場を失くした先端は新しい煙草を求め、火をつけるでもなく、しばらく手の中で弄んだ。
一度沈みかけた話は、京都への道中に会ったという破戒僧の話で再び盛り上がろうとしていた。盛り上がっているのは話している当人のみで、こちらは時間外の誘導尋問を愉しんでいる。相楽左之助という男を知るには非常に有益な語らいだった。人見知りなどせず、相手が誰であっても臆することなく向かっていく。惡なんて背負っているくせに正義感に溢れ、友情に熱い。阿呆でさえなければ、それなりにいい男と言ってもいいだろう。そんなものは俺ですら見抜けることだ。戒を破ったとはいえ、坊主が見抜けぬ筈はない。その破戒僧に二重の極みとやらを教えられたと得意気に胸を張る。
「お前、それをいいことに防御の鍛錬はやってこなかったのか?」
飲み始めてから何本目だったか数えるのも億劫になった煙草を人差し指でトンと叩いて、灰を灰皿に落とす。
「さっきも言っただろ。だーれがお前なんかの言うとおりにやるかよ! 俺は俺のやり方で強くなるぜ」
さっきまでは鳴りを潜めていた憎まれ口が顔を出す。胸を叩いて目の前で拳を握り、空いた方の手では酒をグイッと流し込んだ。
「貴様はまだそんな事を言ってるのか? 死ぬぞ」
わざとゆっくりと煙を吸い込む。そして、溜息と一緒に包帯の握り拳に向かって吐き出した。
「死なねえよ! っていうかまあちょっと死にかけたけど」
言ってるそばから何を言ってるのか分からない。だいぶ酔いが回ってきたようだ。普通に飲んでいて急に潰れる手合いか。
「死にかけたのか」
「おうよ! その二重の極みのときに下諏訪でな……って、これはお前に話すことじゃなかったな」
朱色の頬でヒヨコのような口を尖らせ、プイと壁を向く。
下諏訪。下諏訪……。……やはり赤報隊か? なんとなく、畳の上にぞんざいに置かれた惡一文字の抜け殻がこちらを見ているような気がした。
惡一文字の持ち主は徹底的に酔ったのか、空になった杯を持ったままガクリと首が落ちている。座っているのもやっとのようだ。そろそろ眠らせたほうがいいだろう。夜もかなり更けてきた。吸いさしの煙草を灰皿に押し付けて、本日の吸い納めとする。
「……でも死ぬのは嫌だな。死んだら何の意味もない」
ポツリと、だがハッキリと奴はそう言った。俺に向かって呟いたのではない。酔っぱらいの独り言だ。誰の死に様を思い浮かべているかはおおよそ見当がつく。その背に背負った悪一文字、決意の程を示した鉢巻の赤さ、何よりもその「相楽」という名は元々誰のものであったか。全ては彼岸へ達して十年になる男の報われなかった魂を、永遠に此岸に留めおくためのものだ。
「ならば防御のイロハぐらい身に付けろ」
持っているのがやっとな杯を熱い手から奪い、傷には触れないように肩を押して床に転がす。思った以上に体はぐにゃりと曲がって、半身は敷きっぱなしの布団の上へ転げていった。
「うるせえ!」
煩いのはお前だ。そしてやはり馬鹿だ。放っておけば約束を忘れて大声を上げそうになっていたので、刀を持たずに軽く牙突を放つ要領で飛びかかった。
「貴様、敵の前でもこんなザマになるまで酔い潰れる気か? ついこないだ俺に殺されかけたのをもう忘れたのか?」
少しばかりはデキるかと買いかぶった俺に腹が立つ。所詮はこの程度か。右手は首を押さえ腰をしっかりと両足で挟んで、身体の中心の自由を奪った。ジタジタと足掻くかと思われた手足は意外にもおとなしい。完全に馬乗りになられ、隙を見せたことにようやく気づいた酔っぱらいの目は、次第に焦点が定まってくる。まず俺を見て、左へ右へと目が泳ぐ。何を探しているか手に取るように分かる。刀だ。敵の武器は酒を飲んでいる時であっても、常に細心の注意を払っておくものだ。布団のすぐ横、俺の左手の届く範囲に刀が横たわっているのを確認した目が、観念したようにもう一度俺を見て閉じられた。包帯の巻かれた拳をぎゅっと握るのが目の端に映る。雨が窓や屋根を叩く音がやけに大きく耳に入ってきた。飲んでいるうちに雨足は更に強くなっていたらしい。会話が途切れることによって、ようやくそれに気付かされた。規則的な雨音に割り入るように、湿った熱を持った声が身体の下から発せられる。
「斎藤……。俺ァまたアンタに殺されたのか」
見下ろした身体には二月ほど前に突き刺した刀傷が残っている。若さゆえの新陳代謝と優秀な女医の治療も手伝って治りは早いが、確かにそこに刻まれている。これに怖気づいて東京でそのまま腐っていれば良かったのだ。左手を伸ばし、先程触り損ねた傷に触れてみればそこはまだ僅かに熱を持っていた。傷つけたのは身体だけではない。思い上がりや自惚れも、完膚なきまでに打ち砕いたつもりだった。ところが、打たれ強さを自認するだけあって完全には壊れてくれなかった。バラバラに崩したはずの心の瓦礫が重なり合って火の手が上がる。炎が原動力となって、負けず嫌いを西へと走らせた。ヒヨッコだとバカにして見くびっていた俺の計算違いだったようだ。いや、阿呆には違いないが。
十分に酒を注ぎ込んだ俺の身体にも火が灯される。いや、灯るなんて生易しいものではない。俺とコイツの間に存在しているものは、どうやら灰になるまで燃やし尽くさなければ収まらないらしい。先に火をつけたのは俺だったか、コイツだったか。俺の酔った口唇と、未だ熱を放っている傷口。より熱いのはどちらだろう。
「阿呆が。これから殺されるんだよ」
火照った紅い耳の中に死刑を宣告する。
酔うと人を斬りたくなる……というのは正確に言うと少し違う。明治になってから、必要以外は深くしまい込んでいる狼の本性が疼くのだ。
閉じられた目がカッと見開かれ、意味を理解した自虐的な笑いが口にだけ浮かんだ。
「へぇ……そういうことかよ」
その声に恐怖や後悔の色は微塵もなかった。
「殺せるモンなら殺してみろよ」
炎を湛えた両の目で挑発される。包帯の両手が俺の腕をがっしりと掴んで、肩にまで登ってきた。ならば、とその減らず口を塞ぎ、生々しい熱を絡め合った。