「藤田警部補、はばかりさんどす。傘をお持ちしましょうか?」
はんなりとした響きが美しい敬礼を受けながら署の門をくぐる。
「御苦労。傘は要らん。気遣い感謝する」
幸い傘を必要とするほど激しく降ってはいなかったので、若い警官の有難い申し出は断った。南風に運ばれてきた梅雨の暖かい雨は、身体にまとわりつく不要な熱を払ってくれて心地良いのだ。
京ことばが交わされるのは、もちろん署内だけではない。街のあちらこちらから懐かしい京訛りが聞こえてくる。耳に柔らかいそれは、過ぎ去りし日々の若気を思い出させてくれた。幕末京都の非日常へと巻き戻されるような感覚は、己の中の狼が再び牙を剥こうと舌なめずりしているかのようだ。快い緊張感は、適切よりもやや速く鼓動を打つ。逸る気持ちを紺色の制服で取り繕って平常を装う。全身を巡る熱い血潮のうち、脳だけは冷やしておきたいものだ。
「おーっす、御苦労!」
後ろをついて来たはずのトリ頭が大股でヒョコヒョコ飛び跳ねて、俺を追い越した。
「……? は、はばかりさんどす……」
赤い鉢巻が惡の一文字を前にひらひらと舞っている。やたら滅法に声を張る阿呆のせいで、不本意ながら脳の血管に無益な血を大量に送り込んでしまっていた。犯罪者として捕まったくせに、この堂々した……もとい偉そうな態度は何だ。しかも抜刀斎と会うために、俺と、この国の警察組織を利用するとはどういう図々しさだ。京の新人が訝しげに首をかしげるのも無理はない。なんだって俺がコイツを保護してやらねばならんのだ。こちらへ来る途中、どんどん暗雲が立ち込めていった京の空はやはり良からぬ暗示だった。面倒事を一つ拾ってしまっている間に、鈍色の空は飽和して水が溢れだしていた。まだ本降りには至っておらず、霧雨が烟っている。宿に戻る頃には、水気を含んだ長い前髪が顔に張り付きそうだ。
「貴様はどこに泊まるんだ?」
「へっ?」
東京だろうが京都だろうが構わず阿呆面が振り返る。長い鉢巻がひらりと翻って鶏の尾のようだ。
ここは祗園だ。なぜ祗園で喧嘩をしたかと聞けば「人の多い所で適当に歩いてりゃァ、喧嘩の一つや二つふっかけてくる奴がいると思ったんだよ」とのたまった。なるほど正しい。正しいが、根本的なところで絶対的に間違っている。きらびやかな花街を、なぜこんな阿呆と連れ立って歩かねばならんのか。花のような芳しい香りがしたかと思えば、着飾った舞妓たちが連れ立って歩いている。俺への返答も保留して阿呆はすっかりそちらに目を奪われていた。
「だから今夜はどこで寝る気なんだ、と聞いている。一週間も勝手に居座っていた牢は、さっきお前が壊しただろう」
わざとらしく咳払いをして、濡れ始めたトリ頭の鼻先にビッと白手袋の人差し指を突きつける。
「あー……考えてなかった」
へらりと笑ってガリガリと頭を掻く。おっ立てた髪が雨に濡れて、葉物の野菜を茹でたみたいにしんなりとしてきた。刺々しさを失った頭髪のせいで、幾分幼く見える。
牢を壊したのは、『藤田五郎の知人』という名目でなんとか免じてもらえた。なぜ俺がコイツなんぞのために頭を下げねばならんのか。まったくもって腹立たしい。『藤田君の知り合いかね』と言われてしまえば、否定しがたい。他人のふりを決め込みたかったが、東京でのことや斎藤一の名前について逐一説明するのは面倒だ。それよりも、阿呆が見せた新しい技の方が気にかかる。署長には早々にお引取り願った。
「斎藤は?」
年上に対する畏敬の念など持ち合わせていないこの男は、堂々とタメ口をききやがる。
「貴様には教えん」
「あァ!?」
立ち止まって、懐から煙草を取り出す。湿気をたっぷりと内包した空気に二度三度とマッチをこすり、やっと火がついたのは四度目だった。
どうせ京に呼ばれるのならば、桜が咲き乱れる春か、もしくは山々が赤や黄色に色づく秋がいい。「何も鬱々とした梅雨に事を起こさなくともよいだろう」と志々雄真実に対し、どうでもいいことで恨み言を言いたくもなる。頭に火のついた阿呆の顔を眺めながら、最初の煙を吸い込み、やや大袈裟に吐き出した。
「河原にでも寝てろ。京はいいぞ。良い川がたくさんある。宇治川、堀川、賀茂川。どこでも好きなところに行け」
「雨が降ってるだろうが! なっ!? バカにしてんのか!?」
「そうだ。今頃気づいたのか?」
「てめェ……本当にムカつくな!」
言ってろ、阿呆が。俺が本気で宿を教える気がなければ、今すぐにでもコイツを撒けばいいだけだ。かつての庭のような土地で、右も左も分からない阿呆を撒くのは朝飯前だ。無駄口を叩きながらも、ダラダラ歩いて連れてきてやっているのは誰だと思っているんだ。志々雄真実という災厄に備え、京都の警察は近隣の府県に応援を頼んでいる。何処の宿も掻き集められた他所の警察官で溢れているので、コイツに払えるような安宿はどこも埋まっている。別に河原で寝ようがコイツは死にはしないだろう。しかし、再び警察に捕まるような面倒な真似をされて呼び出されるのは御免被る。ならば俺の目の届く所においておく方が、いくらかマシというものだ。この阿呆がどこまで理解できているか分かったものではないが、それでもギャアギャアわめきながらも延々とついてくる。土地勘のない京に於いて、抜刀斎に繋がるであろう貴重な情報網を手放すつもりはないらしい。
「え? ここ? あっオイ! 待てよ!」
看板一つ出していない小さな宿に濡れ狼が一匹入っていけば、置いていかれては敵わんとばかりに濡れ鶏も一羽ついてくる。
「女将。一人増えるが構わんか? それと手ぬぐいを二枚貸して欲しい」
昨夜遅くに到着して僅かばかりの荷を解き、明け方まで短時間の仮眠を取った。とんでもない時間に訪れる迷惑な客であっても、扉を叩けば開けてくれる。丁寧な応対や、親切な接客とは程遠いが、警察の仕事に理解のある貴重な宿だ。この古びた宿にも、方々から駆り出された警察官ばかりが詰め込まれている。放っておけば酒だけで済ませそうな連中が、女将の作る飯は米粒一つ残さず食らっていた。俺自身とうに東京の濃いつゆのそばに慣れた身体にもかかわらず、初老の域に足を踏み入れた女将が作る京の薄い味付けが、懐かしくも旨い良い宿だ。
「アンタもおまわりはん? けったいなナリどすなあ」
俺の頼みには何一つ答えずに、珍妙な惡一文字を一瞥すると京女が痛烈な皮肉をぶちかました。意味を飲み込めずに「いや俺は」と言いかける阿呆を完全に無視して、今度は俺に向かって女将は言い放つ。
「このとおり、部屋は全部埋まってはりますんでね。藤田はん、おたくの部屋でええどすやろ? お代は……そうやね、ご飯代だけ貰えますやろか」
出された手のひらに刻まれた無数の深い皺は、俺とは違う種類の修羅場を幾重もくぐり抜けてきたことを想起させた。その座りきった胆力はさすがに年季が違う。トリ頭の保護者扱いされているという事実に頭が痛くなりながら、言い値を払ってやるとようやく二人分の手ぬぐいが渡された。
一歩一歩、確かめるように歩かなければ足を踏み外しそうな階段を、ギシギシいわせて登っていく。「え? えっ?」と訳の分からない様子でトリ頭が後ろをついてくる。頭に手ぬぐいを乗せた様子はいかにも間抜けだ。
「椿の間」と書かれた部屋の襖を開けて中に入ると、ピシャリとすぐ閉めた。すぐに襖の向こうで「あ! オイ!」と予想通り、怒りの声が上がる。再び襖をほんの少しだけ開けると、顔中に疑問符を貼りつけたヒヨッコが突っ立っている。
可能な限り声を潜め、額と額がくっつくような距離で胡乱な視線を真正面に捉えた。
「騒ぐな。静かにできるなら中に入れてやる」
深夜とは言わないが、そろそろ夜も深まってきた。薄壁一枚挟んだ隣も、そのまた隣も、京の治安維持のために他所から来た警察官ばかりである。夜勤日勤を問わず不慣れな土地で働いている今の『同士』に迷惑は掛けたくない。潜めた声の言外にその思いを織り込めて、赤鉢巻の下の黒い目をじっと見る。これで理解出来ないほど尻の青い餓鬼ならば、即刻叩き出すだけだった。眉間に寄せられた皺は言葉の意味をほぐすかのように、ゆっくりと浅くなっていく。ぼんやりとした目が俺をまっすぐに捉えると、その色からはじわじわと澱みが薄れて言った。最後にはしっかりと俺の目を見て、ニッと口元を緩ませる。そしてようやく紡がれたのは、それはそれは殊勝な台詞だった。
「……オジャマシマス」
いつもいつも騒ぎ散らしている相楽左之助が、出来る限り声量を抑えているのを見たのは今が初めてだった。と、同時にコイツがそこまで阿呆ではないと確信に至れた瞬間だった。