図らずも招き入れてしまった珍客は、音を立てぬように注意を払って襖を閉めると、たった三畳の狭い部屋をぐるりと見回した。入口の対角線上には小さな窓が設えてある。日に焼けた畳の上に、東窓を枕に布団を敷きっぱなしにしてある以外は僅かに俺の荷物があるだけの殺風景な部屋だ。一人で寝に帰るだけならこれで十分だが、一人増えたぐらいでずいぶん窮屈さを感じている。
「なあ斎藤。もしかしなくても俺の布団ってねえの?」
「そのようだな」
借りた手ぬぐいで髪の毛の水分を拭き取り、ベルトを外して上着を脱ぐ。湿りを帯びた手袋からも素手を解放した。所在なさげに突っ立っていた奴に向かって、荷物を置いて明りをつけろと指示を出す。窓に向かった枕元に行燈がひとつ置かれている。明日からも朝早く出勤し、宿に戻れるのはとっぷりと暮れてからになるだろう。明りなど寝る前の僅かな時間に灯すだけなので、これで十分用を為せる。刀を定位置に置き、腰を落ち着けたところで、雨戸を叩く五月雨が思っていた以上に煩いことに気がついた。宿へ着いた後にさみだれは強まったようだ。間一髪というところか。
五年ほど前に暦が変わって、ようやく慣れてきたところだ。『五月雨』と書いてさみだれと読んでも、今は六月頃の雨と言った方が正しい。
行燈に火が灯されるのを待たずに、手癖で煙草に火をつけると、闇の中に朱い螢が幻出する。それはほんの僅かの時のことで、次の瞬間には部屋の中に安い油の臭いを放つ巨大な不死鳥が舞った。儚い螢火は焼き殺される。煤けた紙越しの炎で部屋が照らされて、畳の上に直に置かれた灰皿が目に入る。こんもりと盛られた吸い殻が目に入り、後悔の念とともに煙を吐き出した。なんとなく、今夜は煙草が増える予感がする。
「まあ俺ァ畳でも構わねえや……ってか金は? あれ、けーさつのけーひでなんとかなんの?」
雨に濡らされた惡一文字を脱ぐと、晒しを巻いた男は大仰な動きで胡座をかく。口を開けなくても、動きというか存在そのものが騒々しい。本人は鍛えているつもりだろうが、まだまだ未完成な身体が姿を現した。剣客の身体はこれまでに何十人何百人と見てきた。それらとは違う筋肉のつき方にふと目がいく。我流の喧嘩と不摂生な生活の蓄積にしては程よい肉付き。生まれ持って恵まれた骨格は、歪みなく釣り合いが取れている。やや細い腰が頼りなくはあるが、どうせ京都に来るまでの間、碌なものを食ってこなかったのだろう。わざわざ留置所に入ったのは、飯代や宿代を浮かす算段もあったのではないかと邪推したくもなる。まともな食事と本人に合った鍛錬次第では、いくらでも化けそうだ。
「なるわけねえだろ。俺の懐だ。あと『警察の経費』」だからな、阿呆が」
灰皿を挟み、俺が奥になって二人が胡座をかいている。触れ合いそうな近さに野郎の膝があって、甚だむさ苦しい。大声を張り上げずとも、阿呆は元から地声が煩い。もう少し距離を取ろうと、壁に背中を預けて寄りかかった。今朝、ここに座って煙草を吸った時に見えたのは黄ばんだ襖一枚だったというのに、男一人増えただけで随分賑やかな眺めになったものだ。
「えっ? 斎藤が俺にオゴってくれんのか?」
あからさまに不躾な視線を送っても、馬鹿はまるで意に介さない。言葉を額面通りに受け取った喜色満面がこちらに向けられた。返答の代わりにたっぷりと時間を掛けて紫煙を吐き出すと、何かを察知したように急に顔が曇りだし、
「いや、お前何か企んでるだろ。そうに決まってる!」と思い切り人差し指を向ける。そして、そのままこちらへにじり寄ってきた。
目は口ほどに物を言うというが、コイツの場合はその両方が休む間もなく喋り続けている。闘い方一つ取っても、次はどこに打ち込んでくるのかが単純で分かりやすすぎるのだ。もっと意外性を持たなければ、早晩に伸び悩むことは目に見える。今までは相手に何か考えさせる前に、その拳で打ちのめしてきたのだろう。俺や抜刀斎に会うまでは。
「さあ? どうだろうな」
阿呆はからかい甲斐がありすぎるので、適当に茶を濁すことにする。不満気な目が睨んで来るのには構わず、美味そうな顔を作って煙草を吸い続けた。
企み、というほどのことではない。ただ、警察署で返却されたコイツの私物におかしなものが混じっていた。人のよさそうな顔の署長は藤田五郎の顔に免じて咎めなかったが、コイツは爆弾を所持している。優しい顔をして「俺は見なかったぞ」と言わんばかりに、阿呆一人に爆弾三つという大凶を俺に押し付けたのだ。爆弾の出処は……おそらく神谷道場の小僧を尾行した時の、月岡という陰気な男だろう。その鬱屈とした見た目によらず、女子供にも大人気だったという絵師を急に辞めたかと思えば、今はややこしそうな新聞をチマチマと作っているらしい。トリ頭やその舎弟連中とは全く毛色が違うので、部下に月岡の素性を調べさせておいたのは正しい判断だった。月岡も元赤報隊だ。一介の絵師が作った爆弾が、どれほどの威力を持っているかは分からない。しかし、トリ頭を見ても相楽総三という男がどれだけ敬われていたかは分かる。元赤報隊に油断は禁物というところか。
「あっ! 良いのあるじゃねえか。斎藤、飲んでいいか?」
思ったそばから元赤報隊は油断ならない。窓辺に置いてあった酒瓶に目をつけられた。見つけるやいなや、それを手に取りこちらに見せつける。瓶の中では透明の液体が大きく波打っている。爛々と輝くその目は、美味そうな菓子を見つけた餓鬼そのものだ。
「遊びに来てるんじゃないだろうが」
「うるせー。だってもう今日は何かできるワケじゃねえだろ。それにこれ、やけに軽いじゃねえか。こっち来てから一人で飲んだんだろ。ほら! ここに杯もあるじゃねえか」
鬼の首を取ったような顔で、半分ほどに中身の減った瓶を俺の顔に突きつける。昨夜は疲れているはずなのに目が冴えて眠れなかった。酒の力を借りようと、持ってきた荷物に忍ばせた小瓶を早速開けてしまったのだ。俺としたことが、阿呆に見つかる前に隠しておくべきだった。……というか、どうでもいいことばかり目敏いな。しかし一人酒というのも面白くはない。妻の杓で飲める日はまだ遠そうだ。阿呆の若造が相手というのも癪だが、いけるクチであれば悪くはない。今夜はもうすることがないというのも、確かにその通りだ。
「……女将にお前の分の杯を借りて来い」
「え? いいのか!」
酒瓶を置いてスッと立ち上がる。だからそんなにわかりやすく顔を輝かせるな。阿呆が。
「階段は静かに降りるんだぞ」
今にもドタドタと駆け下りていきそうな足に向かって入念に釘を刺す。ハッと動きを止め、抜き足差し足で襖をそろりと開けて出て行く阿呆の後ろ姿を見送ってから、煙草の箱に手を伸ばした。煩いのが部屋からいなくなれば、聞こえるのは雨音だけである。今朝までは静そのものだった部屋に暑苦しい異物が入り込んでしまった。成り行き。不本意。計算外。そうは言うものの、予想の範疇だけなんて何も面白くない。この状況を楽しんでいるのは、藤田五郎か、壬生の浪か。己に問うまでもなく、獣が牙を剥き出しにして獲物を狙っている。雨に濡れて少しは冷えたかと思った頭は、とうに冷めることを忘れているらしい。それは京という魔都が持っている強大な気のせいか、それとも阿呆の若気と血気が伝染ったか。どちらにせよ酒でも入れない限り、今夜も眠れそうにない。
詮なき考え事をしているうちに煙草は随分短くなってしまった。遅い。またしても何か揉め事を起こしているのでは……という嫌な考えが胸を過ぎる。いっそそんな胸騒ぎはなかったことにして一人で先にやるかと思いはじめたところに、ギシリギシリと階段を上ってくる音が聞こえてきた。襖の向こうで何やらガタガタしていると思えば、片手に杯、もう片手には俺のとは違う酒瓶を持って器用に足で襖を開けやがった。
「斎藤! 酒が増えたぞ! 女将に杯貸してくれって言おうと思ったらすげー忙しそうでよォ。洗い物手伝ってやったり、重い漬物の甕を運んでやったらコイツもくれた」
僅かに空いた襖の隙間から、薄暗い部屋の中でもわかるほどに白い歯を見せて笑う。そういえば新撰組にもこういう輩はいたな、と思い出した。やけに愛想が良くて、おばちゃんに好かれる種類の奴だ。あの老獪ともいえる女将を、これほど短時間で陥落させるとは。こやつ、やりよる。
「分かった。いいからまずそれを置け。そして襖を閉めて座れ」
あの抜刀斎が相楽左之助を傍に置く理由も、東京に置いて来た理由も少しだけ分かった。俺が東京で相楽左之助に打ち込んだ楔など、決して意味を成さないと抜刀斎はちゃんと知っていたのだろう。相楽はどこか狭いところに無理矢理に押さえつけたり、閉じ込めたりできるような男ではない。身の程知らずと言えばそれまでだが、更に一歩も二歩も先に踏み込んだ根っからの負けず嫌いが不可能を可能にしている。ガラが悪いくせに妙に人懐っこいのは天賦の才と言ってもいいだろう。抜刀斎の懐に入り込むどころか、不可抗力とは言え、今こうして俺の寝所に招いては杯を酌み交わそうとしているではないか。桜の季節、その目の光を永遠に消そうと右肩を突き刺した俺に、梅雨の湿りを纏った京の酒を注いでくる。杯に酒を受けながらその目を伺うと、大事な酒を零さないように気を使いながらも波々と入れてきた。注ぎ終わると畳の上に酒瓶を置く。続いて、こちらを見て何かを期待するように笑みを浮かべた。まるで悪戯に気づいてほしい小僧のようだ。そして駄目押しのように、恭しく両手で杯を差し出して頭を下げた。
「……分かった。貴様だけ手酌とは言わん」
決して根負けなどとではない。俺自身が注いでやってもいいという気になったのだ。警察に捕まって、『知り合い』に助けてもらい、今夜の寝床を与えられ、酒まで振舞われる――なんという椿事だろうか。言動に僥倖が着いて来る部類の人間なのだろう。
強運の男は酒を注ぎ終わっても、いきなり口をつけるような真似はしなかった。俺が酒瓶を置き、杯を手にするまで黙って待っている。
「なんだかんだ言っても、アンタのお陰で助かったぜ」
本日二度目の殊勝な台詞を吐きながら、杯を持った右手を斜め上方へと突き出した。
「感謝しろよ。阿呆が」
杯の向こう側に嫌味も裏もない笑顔がある。自分の杯を覗き込めば、阿呆につられて些か緩んだ顔が映っていた。調子を乱されているな、と思いながら微温い酒を喉に流し込んだ。