「もっとあったかいところにおいでよ」
小屋の隅っこで膝を抱えて座っていたら、たんぽぽっていうおっとりした姉ちゃんが卍の隣から手招きしてくれた。マガツっていう頭のツンツンした兄ちゃんも「ほら、行けよ」って場所を空けてくれた。
己は隅っこで良かったんだけど、なんか断るのも変だったから囲炉裏のそばに座り直した。パチパチと音を立てて燃える火の上には晩に食べた残りの鍋がかけられていた。
周りの大人たちはなんか喋ってるけど己にはよく分からない話だ。音として耳には入ってくるけど、中身は全然入ってこない。ぼんやりとした意識のまま、赤い炎だけをじっと見ていた。そうでもしていないと、ここに己自身を保っていられなかった。チラリ、と戸口を見てみる。こんな夜更けに誰も入って来やしない。来る可能性があるとすれば、1人だけいるが、文字通り歩いてここへ来る術を絶たれたんだと思う。だからこそこの人たちは笑って飯食ってられるんだ。けど、己は戸の向こう側、寒さの中でまさに今、ゆっくりと独りで死んでいっているであろう男のことを考えていた。
ここにいる人たちは優しい。世間一般的にいう優しさってこういうことを言うんだろう。姉ちゃんを沼に沈める手伝いをした己にも身体が温まる汁を分けてくれた。それは己が何もできない子供だと思われているからだ。「いろんなこと」をした尸良は死んだ。この人たちが己を殺さないのは、己が何も出来ない子供だからだ。
判っていたつもりだったのに、自分が子供であることをこっぴどく思い知らされた。卍の腕を斬れると本気で思っていたほどには子供じゃない。己は刀なんか握ったこともなかったし、ここにいる連中は多かれ少なかれ剣の心得はある大人だ。己なんかが身の丈に合わない獲物を振り回して、本気でどうにかなるなんて思ってなかった。
子供だと侮ってる他にも…多分父ちゃんのこともあるんだろう……誰も己を殺さない。じゃあ、父ちゃんのことを教えてくれと訴えても誰も教えてはくれない。忍の姉ちゃん達は多分本当に知らないんだろうけど、分かったもんじゃない。誰が正しいとか、誰が悪いとか、もう本当に分からない。
勢い余って慣れもしない刀を振り回した己をもう小屋には置いてくれなかった。そりゃそうだ。そこまでお人よしじゃない。でも、己もあの人たちと同じ空気を吸って生きているのは嫌だったし、そのぐらいの覚悟はできてた。己は尸良に言わせれば半端者なんだろうけど、それでも腑抜けにだけはなれなかった。
冬の夜の空気は嫌になるぐらいに澄んでいた。少し前まで唸り声を上げた野犬が餌に群がっていたのが嘘であるかのように静かだ。昼はチラついていた雪もすっかりやんでいる。空には薄雲ひとつなくて、バカみたいに綺麗な満月が浮かんでいた。積もった新雪に月光がキラキラとはね返って、夜だというのに変に明るい。でもかえって好都合だ。道に迷わなくて済む。柔らかい雪の上に一歩ずつ足跡をつけて前に進んだ。
金もない。飯もない。己しかいない。
でも己にとってそれは初めてじゃなかった。1度目は母ちゃんが死んだ時、2度目は父ちゃんが殺された時、そして3度目が今。いつも己のそばには誰もいなくなる。みんな死んでしまう。なのに、卍には姉ちゃんがいて、姉ちゃんには卍がいて、他にもなんだかよく判らないけど人がいた。ご飯はあったかくて、こんなあったかくておいしいご飯食べたのはすごく久しぶりで、みんな笑ってて、正直己はうらやましかったんだ。もう己には誰もいないのに、尸良は一人で死んでいったのに、こいつらはずるいじゃないか、って。姉ちゃんは「見届けたいものがある」って言った。でもそんなのずるいじゃないか。己にはもう、何もないのに。
街道沿いをひたすら歩いて、牛久に来る途中につかった空き小屋にたどり着いた時にはもう夜が明けそうだった。いろいろな事がありすぎて頭がやけに冴えていたけど、冷えた身体はひどく疲れていた。こないだと同じように火をおこして、かじかんだ手をかざす。ゆらゆらと揺れる火の向こう側に尸良はいない。「練造ォ」と呼ぶ声もなく、ただ、パチパチと木が燃える音がして、弾け飛んだ火の粉が舞っているだけだった。